naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

愛の泉の物語

愛の泉の物語

「分ける」ということの深い意味を、私は今、自分の生きる世界で、民間、業界、政府、そして国際舞台を問わず、津波災害の救助にあらゆる手段を投じているこの日本で、毎日毎日体験しているようだ。

かつて私は、エルサルバドルの内戦の中で、「分ける」ことの意味を、小さな規模で体験した。アメリカにいた豊かな親戚を頼って、避難した私たちは、冷蔵庫の食べ物一つ一つに所有者の名前を書いて、各自の所有を主張して譲らない家族6人の姿を見た。あの時、冷蔵庫にあるアイスクリーム一つにお金を払うと言っても2歳のわが子に分けてもらえなかった私が、同じエルサルバドルの難民の暮らすマイアミに、知り合いを尋ねて行った時、そこには、お互いに見ず知らずの6人の難民が小さな家で暮らしていた。

私はそこに2歳の子供を連れて割り込んだ。

突然入りこんだ私たちを含めて8人となった人々に、十分な食事などなかった。そのうちの一人がどこからか得てきたリンゴ一つを、その人は一人で食べなかった。まして、リンゴに名前を書きこまなかった。リンゴを8つに割り、8人で食べた。その一切れは、聖書を知っている私にとって、まさに「聖なるパン」だった。

日本は今「未曽有の災害」にであって、聖書を知ろうが知るまいが、1つのリンゴを5万人に分け合おうとしている。誰の「布教」にも頼らず、宗教、宗派、政治的派閥の区別なく、やくざっぽい連中も、茶髪でずっこけズボンの若者も、1つのリンゴを5万人にという大合唱をしている。私が昨日書いたことの意味は、「そういう時に5万のリンゴを自分だけのためにかき集める馬鹿」への警告だったんだけど、わかっちゃくれないだろうな^^。

ところで、その「聖書」の話^^。

山上の垂訓で、イエス様が「5つのパンを増やして5000人をいやした」という記述から、その「奇跡」ならぬ「奇術」を信じることを「信仰」と勘違いした集団がいる。それをたぶん、キリスト教徒というのかもしれない。

まず出エジプト記で、「砂漠のマンナ」におもうこと。

エジプトから逃れた古代の集団難民がたどった砂漠で、不思議な食物に出会ったイスラエル人が、その記憶を「ヤーヴェにいただいた不思議なパン」として記録に残した記述から、なんだか、いかにもへんてこな出来事がどんどん起きるのが旧約聖書という風に考えられている。

私にはそうは思えない。飢えた難民が、砂漠に期待しなかった食べ物の発見に、彼らが信仰するヤーヴェのはからいを信じたのを、あのような形で「表現」したのではないかと考えているのだ。

あの記述で重要なのが、「一人がその日に生きるためだけ」しか採取を許されなかった、という点である。「一人が多くをとれば、もう一人が死ぬ」、それほどの極限を生きていた難民の、自然に身につけたルールを、彼らはヤーヴェの意思として記録したのだろう。「一人が多くをとればもう一人が死ぬ。」みんなが生きるためには、「分けること」。一つのパンを隣の人と「分けること」、分けたときに、二人が生きる。3人で分ければ3人が生きる。5000人で分ければ5000人が生きる。その精神が、5つのパンが5000人をいやしたという表現となって、イエスの奇跡が伝えられた、と私は考える。

人にできない不思議な奇跡をおこなったイエス様が神の子で、それを信じたものだけが救われるなんて言う「愛の教え」は、「愛」そのものを誤解した「教え」のようだ。聖書のどの章の何節に、何が書かれているかなんていうことをそらんじて、グループを作り、派を唱え、仲間だけが団結し、組織運営の金を払い、さる儀式をさる方法と時間をかけて執り行い、仲間だけが救われる、などという信仰のあり方は、そもそも、イエス様に対する冒涜だ。

イクレシアという「教会」の原語となったギリシャ語は、そもそも建物なんかではない。「共同体」を訳されているけれど、それは、「ある特定の不可思議なことを信じたもの」が作った組織なんかを意味しない。イエス様の言う「布教」とは「愛の伝播」であって、「信じるものだけ救われるから信じない者は誹謗してもいいし、殺してもいいという理屈で作った組織の発展」ではない。

いざ人々よ、ふるい立て。
苦しむ人々のもとに行け。
そこにあなたの助けを待っている、5万のイエス様がいらっしゃる。
あなたの持っている5つのパンが、5万をいやすパンとなる。
そこにこんこんと湧いてくる愛の泉は、奇術を信じなくても人を救う水となる。