naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

ACの広告にモノ申す

あの広告、おかしい。

心は誰にも見えないけれど
心遣いは見える
思いは見えないけれど、
思い遣りは誰にでも見える
その気持ちを形に:AC

という広告が、うんざりするほど頻繁に流される。震災が起きるとなぜCMはみんなACになるのだか、ここにも見られるなんだか浅はかな自粛ムードに、はなはだ疑問だが、これは、「思いやりが必要だとみられている婆さんとして、一言言っておきたい広告だ。

内容は、なかなか人助けをしたいという自分の思いを形にできないうじうじした少年が、やっと階段を登る婆さんを見つけて、意を決して婆さんに手を貸そうという気になったという意味らしい。

その少年、杖をついて階段を登る婆さんの背中に手をあてがって、手を引き始めたという内容だけど、それこそ余計な御世話だ。杖をつくのはバランスのためであり、開いている片手も、バランスのために開けているのである。手を引き背中なんか押されたら、婆さんはバランスを崩して階段から転落する。

私に経験があるから警告する。あんな軽薄な広告を「思いやり」として流すのはとんでもない。

「思いやり」を広告にするなら、持っている荷物を持ってあげるとか、いざという時のために、少し離れて見守りながら歩くとか、その程度にすればいい。

私は自転車を常用する前、体中に痛みを抱え、バランスを崩して、杖をついて歩いていた。杖の効果と、あいた手の効果をよく知っている。買い物で背中に背負う荷物でさえ、中に詰めるときにバランスを考えて入れていた。なんでもいいから放り込んで背負っていたわけではない。

人間が四足をやめて二足歩行を始めた結果のあやうさを、婆さんになってからつくづく経験した。「移動する」ということは、「バランス」そのものだった。森のサルが木から木へ飛んで渡るときに必要な感覚も1にバランス感覚、2にバランス感覚だろう。

あの時、へんてこな、実は自己満足に過ぎない「いたわり」で、体に触れたりせずに、自転車というバランス感覚に優れた「車いす」を勧めてくれた友人の、あの乱暴さこそ、究極の「介護」の精神だと、今私は思っている。

手を引き背中を押すことが「思いやり」だなどという、人間の体に何の知識もない広告を、天災におったまげた自粛ムードから、「善意にあふれた」広告として、毎日毎時間毎瞬流されたら、老人という生物の実態を知らない若いのが本気にしてしまうではないか!私はこのAC広告に、厳重に警告する。

ばかなことは、やめろ!