naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

この時期に間抜けな話

こころの時代。昨日月曜日、雨宮神父最終回の再放送を見た。最初の放送は、たぶん、病院に担ぎ込まれたときだったのだろう。そのあとは、災害の放送一色で、この番組があったことさえ思い出せなかった。テレビ体操も月曜から復帰し、一安心。しばらく外出する気はないから、体操がないと、体が異常をきたす。

旧約聖書の「罪」の意味と、新約聖書の「救い」の意味。これは一番重大な問題だから、熱心に聞いたけれど、質問事項が次々湧いて、内容を把握できたかどうかわからない。

なにしろ、これは凄く興味ある項目だから。

アダムとイブの物語によって、そもそも「罪」とは何かという問題の理解が問われる。あの物語は、あまりに単純化しすぎていて、「和訳された」記述から理解することは、ほとんど、不可能に近い。だからヘブライ語の研究者としての彼の「本来の意味」が、重要なのだ。

新約における、特にファリサイ人が考える「罪」とは「戒律違反」である。そして、その「罪」なる者の対極にある「義」とは「戒律履行」である。ところが、イエスは「戒律履行」をほとんど完全にするものを「義」とせず、「戒律不履行」を「自から知っているもの」を常に相手にする。「不履行」が正しいと言っているのでなく、「戒律履行不可能」で、しかもそれを知って苦しむ相手に「天の国」の約束をする。

ならば、「罪」とは、なんなのか。「原罪」の物語の出典である旧約聖書の、アダムとイブが楽園に置いて「食べることを禁じられた知恵の木の実」とは何を意味したのか、ということを研究することによって、初めてイエス登場による「救い」の意味がつながる。

「知恵の木の実」を食べると「死ぬ」というヤーヴェの言葉があり、誘惑者の蛇は、食べれば「死ぬのでなく、善も悪も神のごとく知るようになる、つまり神のごとく完全になる」のだぞ、と禁じられたために取って食べたくてたまらないイブをいざなう。この時の「蛇」とは何か。どうもそれは、イブの中の「神への疑い」と、「自分の手で獲得したい」という欲望らしい。

「蛇」は知力の塊。人間に備わったもの。その知力は、不完全。「知恵の木のみ」を食べればその不完全さが「完全」なものになるに違いないという欲望。

つまり、人祖は何に負けたか。

それを雨宮神父は、以下のように説明する。

楽園の木の実はどれも食べていい、という意味は、「生きるに必要なものは、ヤーヴェがめぐみとして」与えた」ということ。「知恵の木のみ」は食べたら死ぬという意味は、元々、不完全な存在であって、恵みによらなければ生きていけない身でありながら、「自ら自力で持って完全な知性を獲得しようと行動すれば破滅する」という意味らしい。

上は講師の言葉を完全に書きとめることができなかったから、私の言葉を補っての説明。つまり、私のいつもの我田引水的理解。で、いい気になってもっとさらに、我田引水を試みると、「創られたという限りある存在である、無明の人間が、自力で真理を獲得しようと、自らの力に執着する」と、「破滅を招く、ということかも。この結論は、昔論争相手の真宗男との「ぶっきり論争」からたどり着いた答えだけど、聖書の専門家から聞くとは思わなかった。

ところで、肝心要のイエス様の救いの問題。

エス様が「義」としたのは、「律法を堅持している」人々、つまり「自力ですべてを完全に履行しているという意識を持った人々」、「自ら天国に入る入場券を持ったと自認している人々」つまり、「知恵の木の実を食べて満足している人々」ではない。

彼が「救いの手」を差し伸べたのは、医者を必要とする病人、彷徨っている子羊、罪に震える売笑婦、信頼してイエスのころもに触れたら、病が治ると思うほど、病に苦しみ、イエスを頼る女、職業差別を受けている収税人、十字架上で自分の罪を認め、私を思い出して下さいと言った罪人、つまり、「自分の力の弱さを知り尽くして、他力に救いを求める、自ら知恵の木の実にありつけない人々」だ。

だから「救い」とは、無明なる人間存在の発見の先にある、無明なる人間どおしの「愛」を通って獲得するものかなあ。

ところで、どうもつながらないのが、ヤーヴェが派遣したイエスを通して、「人類の罪が赦された」または「購われた」というもっともキリスト教の根幹をなす「信仰」だ。

こまっちまった。一番大切な部分を聞き逃してしまった。

仕方がないから、4月に、信濃町の講座の最終回があるはずだから、質問をしまくろう。。にひひ^^。
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でも、もし、上記の思索の行きつくところが正しいなら、イエス様の死後、キリスト教を組織して、派閥ごとに分かれて、お互いに異端だ異端だと言い合っているキリスト教徒たちのあり方は、そのイエス様の「救い」の対象になりうるか・・・

という問題になると、え? と考え込んでしまう。

戒律を自らの知性に驕って履行するものが「救い」の対象ではなく、自らの無力、無明を知り、救済を求めるものが「救い」の対象なら、自分の力で、組織の力、社会的地位、学歴、富という「いちじくの葉」をみずから獲得して身にまとい、裸を隠して、裸の者をあざけるものは、あの何処にもある群れは・・・え?