ぶつぶつメモ

創世記の、人祖の「罪」の意味の解釈から、その「罪からの救いのために来た」イエスの使命、役割の解釈について掘り下げる。

人祖の楽園追放物語が意味する「罪」とは、不完全な存在である人祖が自力で「完全」を求めて破綻した物語と、例の先生は解釈する。そのことを以下のように解釈できるか。

1)創世記の記述:「人祖は裸であることを知っていたが、恥ずかしがりはしなかった」:人祖は無力であることを知っていたが、無力を受け入れていた、と解釈できるか

2)「人祖は知恵の木の実を食べて、裸を恥ずかしいと思うようになり、裸を隠すためにいちじくの葉を身にまとった」:人祖は、「善悪を知る知恵」を獲得したために、本来裸の状態を「恥」と考え、それを何らかの方法によって、隠すことができると考えた、と解釈できるか

3)人祖が恥じて裸を隠した「いちじくの葉」を、富とか、学歴とか、社会的地位とか、権力とか、その他あらゆる人間の本来の姿を隠し、他人よりも良く見せるための欲望と解釈できるか

4)新約聖書の記述において、イエス様が批判したファリサイ人とは、本来の裸を認めず裸を隠すために律法順守をいちじくの葉として身にまとった人々と解釈できるか

5)イエス様の言う「自分は罪人を招くために来た」という言葉の意味は、「裸、つまり無力を隠すために、いちじくの葉を求め、つまり自分を自分でないもののように装うことをせず、自分の裸に苦しんでいるものに対して、神様特製のいちじくの葉、つまり神様の愛を与えに来た」ということなのか。

つまり、「救いとは自分の弱さを認めて、自分をこの世に送った存在の力に頼むもの」にのみ与えられるのか

6)しかし、その救いのために、なぜ、イエス様の死と復活が必要なのか。

エス様の言葉は、以上のような解釈をつなげてみるとわかるが、突然イエス様の死と復活の意味につなげるには、飛躍がありすぎる。どのように、関連があるのか。

ここら辺から、般若心経がでてきそう^^。まさか。