災害と人間の本性

私はずううっと「聖書の読み方」について考えて来て、たぶん、旧約聖書は、「どんな人間がどのように生きたか」という事実を記述したのではなくて、「人間とはどういう存在なのか、人間の命とはどういうものなのか」「在りて在るもの」と呼ばれた「すべての存在のもと」と人間との関係は、どういうものなのかの追求を、寓話の形で記したものなんだろうなあ、という風に理解し始めた。

「罪」という言葉で訳されたものは、「人間が主体的に犯した過ち」ではなくて、「もともとの人間存在の脆弱性」を表す言葉なのだろう。その自らの存在の脆弱性を受け入れない人間の、「完全を追求する欲望」が破綻する姿を、楽園喪失の物語は、語っているようだ。

つまり、これは仏教風に言うならば、存在の初めから人間は「無明」であって、「無明」であることにさえ気付かず、より完全でありたいという欲望を追求し、餓鬼道に落ちては執着を払い落そうとしてもがく、人生一代の輪廻転生(間違っても、死んだら猫に生まれ変わるというようなことを言っているのではない)の姿を寓話的に「表現」したのが、旧約聖書の創世物語らしいなあ。

そうでも捉えないと、あの膨大な書物が、「宗教」の書としての意味がない。つまり、旧約聖書のほとんどを占めている彼らの実際の歴史から、イスラエル人がその都度学んだ「人間本来の存在の意義」と、「在りて在る者」のとの「関係」を、逆に読み解くことが求められている。

今、この例を出せば、たぶん、顰蹙を買うだろう。しかし、私はあえて言う。

今回の日本を襲った「未曽有の」大災害は、一億国民に、「完全を追求した果てに起きた」大惨事であったことは間違いない。地震津波は「自然」そのものだろう。しかし、「原発」はどんな災害にも耐えられる「絶対安全な」施設であると「人間」は驕っていたのだ。

「箱舟(災害対策)」を作ることもなく驕っていた人間が「自然」の猛威に出会った時、もう、今から「箱舟」を作るのは遅いのだ。それでもなおかつ、「バベルの塔」を作り続けようとするとき、「塔」は落雷を受け、お互いにわかりあえる言語さえも失って、ちりぢりばらばらに分裂して行く、それがなにを意味するのかを、字面だけにこだわっていたら、読み解けないのが、古文書というものらしい。

今回の災害の結果、別に神とやらを信じようとなかろうと、それぞれの「魂」は、それぞれの反応をしてきた。それが「団結心」であれ、「援助に向かうボラティア活動」であれ、政府が音頭をとる「自粛」の大合唱であれ、この「未曽有の災害」が、民族に与えた衝撃は、まさに旧約聖書的であると、私は考えた。

何かの衝撃の結果、ヒトが人を愛し合う時、または憎み合う時、またはこれを機会に金儲けようとするとき、人は本性を露呈する。

自分のためだけに、争ってトイレットペーパーを買い込むのも、「人間の本性」であり、汚染を疑って、不買運動に走るのも「人間の本性」である。放射能汚染の真っただ中にいい加減な防御服を着せて若い作業員に作業させる東電役員も本性に従って行動しているのであり、自分より弱く、困っているものを善意をこめて「手を差し伸べる」のも人間の本性である。

私はいやらしいことばかり言っている。なにしろ、旧約聖書にはいやらしい人間の本性の話が、山ほど書いてあるので、ついつい、こういうことを書いてしまうのだけど、人間の本性というものは、本来いびつなものではないのかなあ。

顰蹙を買うことばかりブログに書いている私は、かなり反応を恐れながら、それでもやっぱりこんな考えを書いてしまった。