土曜日の講座から

人祖の「罪」の物語は、単純で、視覚的で、あれだけ日本語訳で読んでも、何ら「深い意味」など想像もできない。だいたい一組の夫婦が禁じられたことをしたという行為が、全人類におよぶという「不合理」は、いかんともしがたい。

その不合理を説くために、ネットで出会った真宗男との問答で、何とか自分なりにその意味を考え直して自分を納得させてはいたが、この程の講座で、かなり明らかになった。つまり裏付けを得たと言ってもいい。

結論から言うと、あの物語は、「完全だったものが、罪によって不完全になった物語」というようなとらえ方をされていたが、実際をよく吟味すると、そうは書いてない。

書かれた「言葉」の意味を原語の意味の範囲からよく調べると、「もともと不完全であった存在が、完全を求めて破綻した物語」ということらしい。そうなると、全人類が人祖の罪の結果を受けたという設定も、大幅に変更をしなければならない。「もともと不完全なものが完全を求めた」というのは、それは我慾とか執着心とか傲慢とか、人間の本性に由来することで、その追求の果てに破たんするということは、原発事故を見ても納得がいく。


むしろ、我慾とか執着心とか傲慢を追求する本性を、本性として引き継いだということなら、その結果、神からの「罰」として、男女共に生きるために苦労しなければならなくなった、というくだりは、結局「人は本来不完全なものであるから、完全を追求することにこだわっている間は、満足を得る状態にはなれない」ということか。

エスの到来は、結局、ファリサイ人の行為に代表されるように、「自力」で「救済」を獲得したつもりになっているものにとって、「救済は得られず」、無力な自己を受け入れて「他力」に自己をゆだねるものに「救済」の道があるという意味で、人祖の所業の結果の救済につながるということになるようだ。で、私には、どうしても、イエスの「救済」が、やっぱり特定の人々に向けられていることに、かすかに疑問が残っていたのだが、講師の上げた詩篇8-6(そのうち記述)をよくよく吟味して見ると、どうもそうではないらしい。

彼が強調するのは、ファリサイ人がどうの、乞食がどうのということでなく、要は「救済は自分で獲得できるものではない」ということ。「自力で獲得しているつもりの者に対する警告」でもあるようだ。

驕り昂ぶっているラクダは針の穴を通れず、無力を悟ったラクダには、たぶん、針の穴が、穴の方で口を開けるのだろう。それは罪というより、自我との戦いであり、目に見える何をしたからとて、心にとって意味がないのかもしれない。

以上は思考の途中なので、以後何度も重複したり、矛盾したりする予感あり。

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食べる=自分の命を存続させるための行為

と考えれば、「善と悪を知る木の実」を「食べる」という意味は、「善から悪に至る、すべての知恵」を自分のものにし、それによって、「誰の助けも借りずに生きる」ということを意味しているはずだ。

ところが「善と悪を知るー全知全能になる」はずが、「自分の裸を知っただけ」、つまり、「自分の無力を知っただけ」だったので、「完全を求めるということ」のむなしさに、これは天罰が下ったと、人祖は考えた。

ということを意味しているらしいなあ。

と思ったら、面白くなった。