「愛」という漢字

初めに断っておくが、以下に書くことには、学問的裏づけはない、私の勝手な主張である。
 
「愛」という漢字は「心を受ける」と書くんだと、さも凄い意味ある漢字のように言う人がいる。
 
ところで、漢字を作った中国人の中国語の語順は、漢文を覚えている人ならわかると思うが、主語、述語、目的語と、英語と同じ語順である。「心を」「受ける」ならこ心が下に来るはずである。「愛」という漢字は肝心な「心」が、受けるの真ん中に取り込まれている。これは「心」を「受ける」でなく、「心」を「閉じ込める」である。漢字は、意味もなく「なんとなく」作ったものでなく、意味と内容が一致している、きわめて高度な文化の産物なのだ。
 
かつて東アジアに多大な影響力を持っていた、仏教の概念では、「愛」は「自己愛」「我執」つまり「執着」であり、本来克服しなければならぬもの、マイナスのイメージを持ったもの、救いとは程遠い扱いであった。
 
ポルトガルの宣教師が日本に来て、アガペの訳に苦しんだ挙句、この「愛」を避けて、「お大切」と訳したのは、「愛」という言葉がマイナスのイメージを持っていたからであって、まさに、「他人を虜にする自己愛による執着心」だったからだ。ポルトガル人の宣教師は、アガペの意味を考えて、相手を大切にする精神として「お大切」という言葉を選んだのだ。
 
キリスト的愛「アガペ」を、何も日本文化の神髄も考えもせずに、「愛」と訳してしまったのは、明治以後であり、実に、仏教が避けるべき人間の本性としている執着心を、キリスト教の中核にしてしまった。これは実に誤解の原点である。
 
愛という漢字が「心を受ける」と書くんだという発言も、中国語または、漢文の語順に無頓着に、キリスト教が自分のものにしてしまった本来間違った言葉を、何とかつじつまを合わせるために言っているのであって、文化的にも、学問的にも、まるで意味をなさない、乱暴な説である。
 
と、私は愚考する。