人前で排泄をすることに関する深遠な考察

私にだって、殺意はあるし、復讐願望だってある。しかし私はその手の感情を「いまわしい」ものだと思っていて、他人に見られることを好まない。それはむしろ、トイレの中の行動に似ている。

世の中に、一緒にトイレを楽しんだり、トイレをともにすることに快感を感じたりする「友情」というものが、たぶん私の知らない世界にあるのだろう。私の知らない世界のことだから、自分の常識で判断するのは、適切ではない。

殺意とか、復讐願望とか、復讐達成の喜びというものが、公開可能なものだった時代が日本にはあった。それが公儀公認の仇打ちである。明治政府がそれを廃止したのは、たぶん、それが、欧米の「常識」ではなかったからだろう。本気で、研究したわけではないから、自分の憶測である。

オサマ ビン ラディンが、他国の主権を侵犯してまで殺害された時、私は彼の死よりも、アメリカ国民の欣喜雀躍する姿にショックを受けた。そして今も、ショックの状態が続いている。アメリカ国民を挙げての狂喜の表現なのだから、おそらくあれはアメリカの「常識」なのだろう。その「常識」をともにしないグループが物を言っても始まらないことである。

ところで、あの報道の直後、ネットには、己の内部に殺意も復讐願望もないらしい善意の意見があふれていた。その中に「キリスト教徒って、みんな復讐を喜ぶんだ」という内容だった。単純すぎて、コメント無用だったが、私は、ずっとその言葉によって、人間の本質というものを見つめ続けている。

私がまだ、仕事を持っていたとき、山手線の沿線のある駅で、一人のおばあさんが、駅のホームでしゃがんで排泄をしているところを見た。病気だったんだろうし、どうしようもない事情があったんだろう。普段なら見せてはいけないものを人前でする時、人は、その事情というものを憶測し、見ないふりをするくらいの思いやりを持つのがたぶん常識だろう。

まさか、「仏教徒って、人前でうんちをするんだ」とは、反応しないだろう。外国人から見たら、日本人は仏教徒である。たとえ葬式仏教で、家族のお墓が仏教のお寺の裏にあるというくらいの、まるで仏教に知識も思いもない人間であろうと、外国人は、日本人を仏教徒だと考える。

日本国民がすべて仏教徒でないのと同じく、アメリカ国民はすべてがキリスト教徒ではない。たとえ日曜にキリスト教の教会に行く人が大勢いたとしても、その教義を本気で研究し、まして、その教義を本気で実行に移している人なんか、ほんの一握りの人間だろう。キリストの精神を生きて、一生をキリストにささげる聖職者でさえ、「ホンモノ」と呼べそうな人間は、1世紀に1度、1大陸に1人、いるかいないかである。それほど、キリストの精神は99%実行不可能な、反常識的、高邁な精神だから、洗礼を受けたって、キリストに従っている「振り」をするのが精いっぱいなのだ。

募金活動だって、慈善事業だって、その「振り」にすぎない。相手が自分より困っている時にだけ、手を差し伸べるのは、差し伸べないよりましかもしれないが、キリストの要求する「愛」ではない。

なにしろ、キリストは「敵を愛せ」と言っているのだから、本来「敵」など存在してはいけないのだ。オサマを殺すのが正義だと言っているキリスト教徒なんて、本来キリストとは無関係な「普通の」人間である。

偽善でしか、信仰表現ができない人々が、オサマ一人を殺して欣喜雀躍するのは、日ごろの偽善さえ忘れた、「本心暴露」に他ならない。

そのキリスト教徒が、世界に向けていっせいにうんちを公開するごとき行為をしたからと言って、すぐに「キリスト教徒は」と反応されても、当惑する。私はキリスト教徒のはしくれだけど、まだ人前でうんちをするほどの重病を患ったことはない。