5月14日の聖書講座受講

以下の記述は、ある聖書講座を受講して得た、私の極めて主観的な解釈である。記述に関しては、責任は私にあるので、講師の名前はあえて伏せる。

エリエリレマサバクタニ

エスが十字架上で今わの際に発したとされる言葉は、2つの伝承がある。

マルコ、マタイでは、「エリエリレマサバクタニ:私の神、なぜ私を見捨てたのか」という詩篇22編の冒頭の句。ルカでは、「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」という、同じく詩篇31編6節の言葉である。

伝えられた伝承について、歴史的客観的検証から、「どちらが正しいか」ということは意味がない、と、A講師はいう。

日ごろの新聞その他の報道だって、同じ事実に対して、各新聞社の報道の姿勢によって、まるでとらえ方の違う記事を書いているのだし、こと、人間を介した報道である限り、主観が全くない記事なんてありえないと、彼はいう。

そりゃそうだな。

エスの十字架上の死を目撃し、彼の言葉が聞こえる位置にいたのは、弟子たちではなくて、彼の使命など、まるで信じなかった死刑執行人であり、遠くからこわごわ見ていたのが3人の婦人たちで、最後の言葉など聞こえる距離ではないのだ。おまけにその言葉は、両方とも詩篇からの引用となれば、あれほど長時間、なぶり殺しのような状態にあって、最後の言葉に詩編なんか引用しているような悠長なことができるか・・・?

と、言ってしまえば元も子もない。

エスの今わの際の「言葉」とされるものは、かようなわけで、マルコ、マタイと、ルカのイエスの「十字架のとらえ方」の違いと、A講師は説明する。「十字架のとらえ方」となると、それはすでに、信仰表現であって、何処から見ても客観的科学的な耳目に訴える事実ではない。

そのことの説明のためというか、つぶやきのようにも聞こえたのだけど、彼は、面白いことを引用した。

日本における今般の大震災+つなみ災害で、多くの人がなくなった。ある記事に、津波で夫を失った女性の「体験」の話が出ていた。その女性は、失った夫の遺体を探していたのだが、どうしても見つからなかった。

ところで、夫は生前、住んでいた地域のお地蔵さんを大事にしていて、お花を替えたり、衣装を替えたり、そのお地蔵さんの面倒を見ていたそうだ。妻はそのお地蔵さんにお参りして、夫の遺体を探してくださいと手を合わせていた。そのお地蔵さんも津波被害を受けていて、元々立っていた状態から、90度傾いて、以前とは向きが変わっていたそうだが。夫の遺体は、そのお地蔵さんの向く方向で見つかったという。妻は当然、そのお地蔵さんが夫の遺体を見つけてくれたと、感じた。

そのことが、科学的観点や、歴史的観点や、「客観的もろもろの事実」と照合した考え方によって、意味があるかないかという議論も可能だが、そのことによって、妻の人生にある変化をもたらし、ある方向を示したということは、ありうるだろう。そこに「客観的に、科学的に」「他人の目」から見てどうのということは、その妻に於いて意味のないこと、むしろ意味あることは、その事実が妻の人生んに及ぼした「なにか」であることは、まぎれもない事実なのだ。

と、彼はいう。

そのこころは、「ただの、冤罪による一人の男の刑死」にすぎないと「客観的に見えた事実」には、大した意味があるものでなく、意味があるのは、「イエスの十字架上の死」によってのちの人生に深く影響を及ぼされた人々の信仰の方であると、いうことなのだろう。

そのことが、マルコ、マタイのとらえ方、ルカのとらえ方に反映していると、彼は見る。

マルコ、マタイが指摘する「エリエリレマサバクタニ」は、絶望の表現であると一般の学者は見るそうで、A講師はそうは見ない。

マルコマタイのイエスは「自分を見捨てたかに見える父なる神」に向かって、「なぜ?」と問う。自分の受けているこの苦悩の意味がわからない、その苦悩の意味を教えてくれと、問いかけているのだと、イエスと神の関係は、そういう信頼関係にあるのだと、彼はいう。

彼の説明では、苦痛の絶頂の中で、人が歩む3つの態度が以下である。

1)神も仏もあるものかと言って、絶望し、神から離れること。
2)現実の苦しみを見ないようにして、妄想と見分けのつかない信心行に逃げ込むこと。(これ、素敵に面白い^^)
3)「なぜ?」と相手に問いかけること。

自分が信頼しても信頼しても、苦悩の人生から救い出してくれない相手に、「なぜ?」と問うことができるというのは、よほどの信頼がないとできないということ。なるほど、一般の人間関係の間でも、親子の間でも、信頼にこたえない相手に、「なぜ?」と問うことはほとんどしない。憎むか打ち捨てるか、関係を断つことによって、自分の心の安寧を保つか、つまり信頼関係を持続させようとはしない。

自分に思い当たることがある。

子供の時、実の親から激しい折檻を受けて育った。親は恐怖の対象以外の何者でもなかった。いつまでもいつまでも私はそのことを記憶し、自分の人生上の失敗をすべて親の所為にした時代があった。ただし私は親を憎んだことはなかった。艱難辛苦の青春時代を通して、私は自分の置かれた人生の意味を追求し続けた。

思い当たることというのは、母を看取るために引き取った私が、今わの際の母に、とうとう聞いた。「なぜ?」

「なぜ、あの時、あんなにひどい仕打ちをしたのか」

母はその時答えたが、答えが私の目的ではなかった。「問うことができた」という事実の方が、私には重かった。私は母を心から受け入れた。そして、自分にこの母を与えてくれたこと、苦難の人生を与えてくれたあの「与え主」に感謝した。その後、何が起きてもその出来事から逃れようとしなかったのは、「その苦悩」に意味があることを、私は知ってしまったからであった。気にいらなければ子を捨てる、気にいらなければ離婚する、気にいらなければ親をも捨てる、それが「常識」のこの時代、私はそれをしなかった。私は親を見つめず、親を送ってくれたその元を見つめていた。

だから、A講師の、この「なぜ?」と問える関係は、よほどの信頼がなければできない関係だ、ということを、私は確実に理解した。

講師はいう。「なぜ?」に対する神の答えは、「十字架上の死」そのものだったのだ、と。だから、ルカの「父よ、私の霊をあなたにゆだねます」が生きてくる。イエスの十字架上の死があって、初めて復活があり、救いがあることをその使命の遂行によって、イエスは受け入れたのだと。

というように、彼は飛躍する。その飛躍を受け入れるには、たぶん、十字架上のイエスに出会わなければならない。

出逢うというのは、別に、化け物の出現が身に起きるということではないだろう。そういうことをどんどん信じている集団も、知っているけれど、私はそういう集団に所属しない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
エスの十字架の両脇に、おなじく磔刑を受けていた、二人の盗賊の「役目」

一人はイエスを侮辱し、もう一人はイエスをメシアと認めていた。侮辱する方には、「他人を救ったんだから、自分も救え、この私も救え、それができないものがメシアと呼べるか」という意味のセリフを言わせ、メシアと認めていた盗賊には、「あなたが天に上げられた時、私を思い出してください」というセリフを言わせる。

その盗賊にイエスが答えていうセリフは、「あなたは私と共に天にある」ということになっている。

つまり、イエスを侮辱した方の「メシアのとらえ方」は、地上における王、強い支配者、自分を肉体的苦痛から解放してくれるものであり、イエスに「自分を思い出して下さい」と頼んだ方の「メシアのとらえ方」は、「十字架を下りて自分を救うメシア」を想定せず、「最後まで十字架上の死を全うする者」であると、確信している。