naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

訃報友達

大学時代の同級生(らしい)人で、学生時代も社会に出てからも、あまりお付き合いのない人が、連絡網でだけ、いつも「交流」みたいなことをしている。大学の卒業生の連絡網は、毎年幹事が決めるらしいが、住んでいる地域が近いということでまとめるらしい。私は千葉県だから、一人前の人も、千葉県。実は、顔を思い浮かべることもできないほど、実際で口を聞いたことがない。彼女よりはむしろ、ネットの付き合いの方が人物を想定できるほど、「遠い」のだ。

おまけに、連絡網と言えば、このところ同級生の「訃報」ばかりである。お互いに知っている人の訃報なら、お互いにその主人公についてお話ができるが、まるで知らない場合、どうも話が仕様がない。

彼女はそれでもいつも、みんな年老いていって、そろそろ自分も…だとか、見送ってばかりというのは寂しいわね、とか、なんだか話を引きのばすことにしている。そういうのが続くと、なんだか親しい気持ちになって、ついいろいろ話をするのだが、なんだか、それは特別のジャンルの友達で、「訃報友達」とでも呼べそうだな、と感じている。

昨日も訃報を受け取った。亡くなった同級生は、私も親しくお付き合いしたことがあるから、その訃報友達が連絡してくる前に知っていた。訃報友達は、逝った友人のことを知らなかった。話をしているうちに、その友人の友人が私との共通の友人らしいということが分かり、話はやっとつながった。

で、いつものせりふ。見送ってばかりというのは寂しいわね。最後に残されるのはいやね、あなたは元気なんでしょう?私より後まで生き残ってね・・・。

告別式は明日で、ちっと遠い。見送りたい相手だから、私の整形外科の診療予約をキャンセルした。一緒に山に行ったこともある。元気だった時にしか私は知らない。つかず離れずのグループを作っていたから、時たま出会うことがあった。一番最後に出会ったのが、私の方の高校時代の友人を母校の聖堂で見送った時だった。彼女にとっては大学での出会いだっただろう。その時すでに彼女は病魔に侵されていたということを、私は全く知らなかった。

そんな話を、その訃報友達と話し合った。

実際、「見送る」のは寂しい。でも、いかんせん。そのうち私も消えゆく身だ。実は、なるべくなら、誰にも見送られないで逝きたい。どうもそれが私のスタンスらしい。