今日の「こころの時代」

今日の「こころの時代」

気仙地方のカトリック信者の医師で、「気仙語」で聖書の翻訳をしたという山浦玄嗣さんの話。今回の震災と津波の被災者でもある。有名らしいけれど、知らなかった。

非常にいい表情をしている。「いい表情」とは、非聖書民族のカトリック信者にありがちな、敬虔をよそおっているわざとらしい雰囲気がなく、「苦労したらしい人生のその結果として、得たに違いない、ある種の平和」を体中に宿している、という表情。わかるだろうか、この表現。

日本語訳の聖書が、文語訳も口語訳も、だいたい「日本語」として通じる言葉ではなく、異常に厳か過ぎたり、現実とかけ離れ、実際には使われていない「口語」だったりして、私は苦しんでいた。イエスは貴族でもなく、宗教的指導者でもなく、そもそも「汝らは・・・」などと話したはずもない、庶民の生まれ、父は大工で、イエス自身も、使命に目覚めて「福音」を述べ始める前は、父について、大工の修行をしていたのである。

そのイエスの教えを、日本語のそれも東北の1地方の方言で訳したというのは、訳者が何を考えていたか、理解できる。自分がわかる言葉でイエスの言葉を「聞きたかった、そして知らせたかった」のだろう。番組には紹介されなかったから、検索で読んだのだけど、彼はそれを、一般に流布されている日本語の聖書からでなく、ギリシャ語を勉強して、ギリシャ語から直接翻訳したという。かなり興味深い。

私が今、通っている「聖書講座」の原点もギリシャ語の本来の意味から、同時に、イエスが実際に話していたと言われるアラマイ語(古代ユダヤ語)の研究をベースにした講座なので、非常に興味をそそった。

ただし、きょうの「こころの時代」の主題は、気仙語訳聖書のことではなく、今回の災害の被災経験の話であった。

興味を惹いたのは、彼は、心の中で私がこっそり考えていた、今回の災害を旧約聖書に記述される数々の「自然災害」の物語に思いを馳せているらしい点。

土曜日の講座でも、講師がいっていた。旧約聖書の物語は、人間謳歌の話ではなくて、人間の限界の話が大多数を占めること、そこに、ノアの洪水の災害が重なり、バベルの塔の(たぶん震災による)崩壊が重なり、その原点に必ず人間の限界に対する警告がベースになっていること、だという。

だいたい、聖書というものは、災害なり戦争なり、ある事件が起きてから、かなりの年月を経て書かれたもので、その記述は実写ではありえず、そこに人間の「歴史解釈」、ヤーヴェとのかかわりによる、「宇宙創造の解釈」が書かれているのだ。

ある事件をヤーヴェとのかかわりにおいてどのように「解釈」したか、ある災害をヤーヴェとのかかわりにおいてどのように「解釈」したか、預言者と呼ばれる人々が、何を訴え、人々はどのように反応し、その反応の結果、どのようになったか、その「解釈」が書かれている。

その「解釈」とは「メッセージ」であり、災害や戦争や出来事の事実を知ることが目的でなく、その事実にどんなメッセージがあるのかを伝え、読みとることに意味があるのだと。

この人の気仙語訳聖書、読んでみたいけれど、やたらに高いのと、彼の意気込みは分かるし賛同するが、私が気仙人ではないので、意味ないかなあ、とも思っている。