naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

信仰といわれても

キリスト教というのは、成立のころは、迫害を受けていた。その後、コンスタンティヌス大帝が、キリスト教を国教としてから、形勢は逆転し、支配者側に回った。
 
国家の元首が国を挙げ、一つの宗教を持ちあげる時、それは政治利用、支配の都合によることは、どんな宗教でも共通である。国家元首である以上、反対者は殺すのが常套手段であり、イエスキリストの精神である「敵を愛した」国家元首など一人もいない。だから、キリストの精神を「国の基本」とすること自体、すでに腐敗の一歩であった。
 
キリスト教が、東方教会であれ、カトリック教会であれ、イエスの精神を本気で命がけで生きていたのは、初期の迫害時代だけで、ローマ皇帝が支配の都合でキリスト教を国教会としてからは、底辺で苦しむ庶民以外は、イエスの精神の具現者などいなかったと言ってもいい。
 
現在キリスト教の伝統として行われている信仰内容、その他の儀式とその意味づけは、支配者側に回ったキリスト教国における公会議に置いて、「決められてきた」ものだ。そして、支配者側の「腐敗」を批判して分離独立した、いわゆるプロテスタントが綱領としている信仰内容も、大半はその踏襲である。
 
20世紀末、教皇ヨハネス23世が提唱した公会議の結果、カトリックが過去の反省と純粋に学術的研究によって、取捨選択して廃止したものさえ、多くの反カトリックキリスト教諸派カトリックの異端的解釈として認めないらしい。
 
信仰と学問は別だと、多くの信者が言う。確かに信仰と学問は別だ。しかし、間違った伝統によってその信仰が保たれているなら、その信仰だって間違っている。いくらイエスが神の子だということを信ずれば、それですべてがOKだと言われたって、その肝心の「神の子」の意味だって、「神の子」と言い始めた民族の歴史と伝統と、なによりもまず彼らのメンタリティーとの研究なしに、ただ、信じるわけにはいかない。
 
なぜなら、「神の子」と日本語で意味する言葉の内容と、イスラエル人が意味した言葉の内容と、聖書原語であるギリシャ語の意味する言葉の内容を吟味しなければ、われわれ日本人は、本来日本人の言語である「神」の概念から離れることなく、神々のうちの一人の「神の子」をとらえているかもしれないのだ。「神」は日本語であって、日本の神の概念は、古事記の神々に出自があるのだ。その中心的な神、天照大神の子なら、歴代の天皇ですぞ。
 
私はある時期から仏教に関心を持って、仏教の研究をしたが、キリスト教側が、本来の日本の民族宗教の「神」という言葉をその概念の比較研究もなしに使ったために、仏教学者は、キリスト教の神が一神教だという意味は、「多くの神々の中から自分の民族の神を一人選んでそれだけを真実の神」と称していると断定している。世界に名だたる仏教学者がそう公言するなら、一般の日本人は、そういう考えで持って、キリスト教の「神」をとらえるだろう。そして、その事実に対して、まったく反論は不可能である。大航海時代に漂着したとはいえ、日本に来た初代宣教師たちの努力による、「天主」という訳語を、なぜそういう訳語を考えたかも考察しないで、「流布している」という理由で、「神」を使った結果なのだから。
 
私はそう言う概念を念頭に置いたまま、「イエスは神の子」という「表現」をそのまま信じるわけにはいかないのだ。
 
ヤーヴェは原存在であって、すべての存在のもとである。似たような存在がたくさんいて、その中の一人でおらの神は一番偉い、お前の神は偽物だ、などという議論の通じる「神」ではないのだ。すべての存在のもととしての「原存在」が、複数あってはおかしいのである。
 
あたかも多神教のように見える、聖母マリアを国中にぞろぞろ擁して女神扱いにしているスペインカトリック教会も異常だし、父と子と聖霊は一体であって、三人いるけど一人であるとか、意味不明なことを唱えている信仰のあり方も、「訳語」を考え直さなければおかしいのだ。ヤーヴェはヤーヴェ、ヤーヴェの使命を帯びてこの世に人間として送られたイエスは人間、ヤーヴェの働きを人々に伝える霊力は霊力、説明してできないことはないのだから、3はすなわち1である、なんて言わないでほしいものだ。
 
私に「信仰」がなくて「学問」ばかりを好んでいるわけではない。いくら信仰を強要されたって、納得しないものを信仰することはできない。ヤーヴェの世界は、知性のみでとらえられるものではないことだって、わかっている。しかし私は偉い人が寄ってたかって、信仰を強要しようとも、イワシの頭を信仰しない。