naisentaiken’s diary

エルサルバドル内戦体験記

とりとめのある話

今日は父の命日。あれから61年か…。父の年齢を20も超えた。あいにく雨で、府中まで墓参りは、無理。梅雨の晴れ間のある朝、その気になったら行こう。実は昨日からあまりの寒さに風邪ひいて、のどが痛い。
 
節電節電と、世の中うるさい。言われなくても、震災前から節電していたけれど、なお必要ならと、昼間でも電燈のいる居間からアトリエ書斎に引っ越した。アトリエ書斎にはテレビもパソコンもない。だから勢い読書と絵描き。でも、あまり静かなので、CDをききながら。読書の時に余計な「言葉」が聞こえるのを嫌って、ひたすらクラシック。これって、「優雅」なのかもしれない。
 
ところで、珍しいことが起きた。長いことマックと一緒にしていたケーケ、マックが老齢で、うずくまっているので、抱卵期に入ったロロの代わりにケーケをファラオの部屋に入れた。もともとケーケはファラオが好き。ロロは抱卵と言っても飼い主の勝手で、卵はない。卵がなくても一定期間巣にこもってしまうのが本能だ。ファラオは久しぶりにケーケにあって、盛んにいいより、ケーケも受け入れた。
 
今朝、騒々しいので、行ってみたら、巣の中に、ロロの代わりにケーケが入っている。追い出されたロロがさわいでいた。
 
さては、しばらく卵を産まなかった、ケーケが卵を産んだのか?結果は産んではいなかったけれど、その気になっているらしいことは確か。
 
で、またCDと読書のことだけど、「冬の兵士」は陰惨すぎ、公案は肌に合わない。とうとう戻ったのがもとの古巣。講座を聞きに行っている例の講師の著作である「図解旧約聖書」という、おかしな本を読み始めた。物凄くわかりやすい旧約聖書の解説だけど、そこそこに作者の学問に裏付けされた例の解釈がちりばめられていて、一々納得。
 
学問がすべてではないことは分かっているが、作者もそれをわかっているらしい。気にいっているのは、聖職者にありがちな異常にのぼせあがった天上的な言葉遣いがないこと。「知っていることを言っているに過ぎない」例の彼らしい語り口。後は読んだお前が勝手に解釈するのは自由、というようなつきはなし方が何とも素敵^^。
 
きっと、この本を読んだ後なら、あの陰惨な記録に向き合えるかもしれない。人間とは本来おろかなもの。愚かな人間が自分の愚かさを粉飾なく語るなら、その愚かに付き合ってもいい、と、旧約の時代の人間の極めて「人間的愚かな」歴史を読みながら思った。愚かな人間が自分の愚かさにおったまげた結果、自分の愚かさとむきあい、やっとヤーヴェに祈りだす、それが旧約聖書の中心に流れる、「真理」らしい。
 
ところで、描いている絵は、ひどく個人的な題材。孫の肖像画だ。本人がそばにいないから、数年前の写真をもとに描き起こし。かなり難しい。絵は写真じゃない、表現だぞ、と初めに着いた光風会の先生が、口を酸っぱくしていっていたな。今頃、その意味がわかってきた。
 
人はって…私もだけど、聖書という本の題名を見ただけで、一気に誤解してしまって、その中には天上的な真理がちりばめられていると思ってしまい、読んであまりにおどろおどろしい人間の歴史にたまげて、こんなもんうそっぱちと、放棄するらしい。「真理」とは、いろいろな局面があるもの。敵を殺すも真理。権力にしがみつくも真理。自分の子孫のために、他人の子孫を滅ぼすのも真理。苦しんだり墜落したり、立ち直ったり祈ったりする心の動きも、「真理」。
 
そして、その暁に、人が向かおうとする「なにか」を示すのが宗教。そう思って読むと、「冬の兵士」も宗教書になりうる。