「とりとめ」2点

旧約聖書」、ときどき眠りこけながら、ここは面白いと思った部分を、メモした。今日は2点。

1)「イスラエル」とは、民族名でもないし、現在中東で問題行動を起こしている国のことでもない、聖書における「イスラエル」とは、「ヤーヴェの使命を受けて行動する共同体」だそうだ。ヤーヴェがアブラム(のちのアブラハム)に言う言葉:「お前の地を離れ、お前の父の家から離れて、私の示す地に行きなさい」、つまり、地縁血縁から離れて、ヤーヴェの示す方向に行けという。その「示す方向」は明示されていないにもかかわらず、アブラムは地縁血縁から離れて、ヤーヴェを頼りに歩き出す。

で、聖書に描かれているアブラハムヤコブ、イサクという名の人物には、相互に血縁関係がない部族名であると、多くの研究者が指摘するそうだ。「イスラエル」という名が集団の名として出てくるのも、苦難の末、出エジプトを果たしてカナンの地に定住して後のことらしい。みんな知っているのかもしれないけれど、私は初めて知った。

イスラエル」が民族名でも国名でもなく、「ヤーヴェの使命を受けて行動する共同体」という指摘は、私には、安どの気持ちを感じさせる。そうでなければ、「聞け!イスラエル!」というヤーヴェの呼びかけの意味が気になったし、現代のイスラエルの神の選民意識が、邪魔だった。

2)ヘブライ語では、「罪」と「罰」は同じ言葉だという事実。「罪」と「罰」は日本語で聞くと、人間が勝手に犯すのが「罪」その結果神が与えるのが「罰」のように聞こえる。それが元々同じ言葉だということなら、「罰」の意味がまるで変わってくる。「罪」は犯したとたんに、自分に戻ってきて苦しめる、もがいたり、悩んだり、後悔したり、犯した人間自らが自分に罰を科すごとく、のたうちまわる状態を「罰」と「表現」するなら、この言葉が同じ言葉で表現されるというヘブライ語は、なかなか当を得ている。

つまり罪の主語は人間で、罰の主語は神であるという、そのように「分裂」したものではないのだ。

それをばらばらに訳さなければならない異国語は、どうも聖書の真実を伝えていないように思える。