偶像の意味

休み休み絵を描いたり、本を読んだりしている。目が疲れているせいで、遅々として進まないが、今日、得たこと1点。

それは、モーゼの十戒で知られる項目の中にある礼拝を禁じられた「偶像」の意味。私としては、自己流に拡大解釈していたが、雨宮神父さんの著作では、なかなか的確な定義がなされていた。

私の拡大解釈は、なんどか記述したこともあるが、とにかく、すべての存在の源であるヤーヴェ以外の物を絶対視すること。それが石像とか、木像とか、目にみえる「形」をした「像」にとどまらず、むしろ、目に見えなくとも、自分がよりどころにしている富、財産でも、土地でも、学歴でも、名誉でも、名声でも、人間の指導者の威圧的な権威によるもろもろの物、それには教会だって、布教のシンボルだって、都合に合わせた聖書解釈だって含まれる。それらをすべて「偶像」であると、私は考えてきた。

石膏像や木像など、触れば病気が治るなんて言う信心は、むしろ、幼く可愛いと言える。そんな幼いものは、わざわざ「戒」として禁じるような重大なものではない。いつか臨時に教壇に立ったことのある、仏教校の先生に、あの御本尊の意味はなんだと聞いた時、彼は実に明快な答えをしてくれた。

いわく。あれは祈る時の「焦点」として置いたにすぎない。そう。目に見える存在である人間には、目があるのだから、目の焦点がないと落ち着かない。相手が学齢にある子供の場合、「空」を知るには「色」を通らなければ困難だ。だから「空」を知るための「色」として、あの仏像がある。

あの答え、言い得て妙とばかり、いつまでも覚えている。

ところで、雨宮神父さんは一言で言う。「偶像」とは、人間の願いの投影にすぎない、と。

富への欲求をかなえてくれるもの、入学への欲求をかなえてくれるもの、人間が現実に苦しんで、「こうあってほしい」と願うもの、それを形として絶対視する時、真理から離れる。だから「偶像を拝むな」と、禁じたのだ。

なになにを信じれば、願いがかなう、高価な壺を買えば、願いがかなう、足の裏を拝めば、病気が治る、それらを標榜する宗教は、別に壺が悪いわけでも、足の裏が悪いわけでもない、「叶わぬ夢」を、条件付きでかなうと信じさせて、苦悩の人生から目を遠ざけ、与えられた苦悩の意味を考えさせることもなく、真理から遠ざけるから悪いのだ。

あの「戒」の意味を、ただ石地蔵を拝んではいけないと言う解釈をして、石地蔵を破壊するのが、「正しい」わけではない。世界中の世界遺産を破壊せよという「戒」など、意味がない。

ということを、しょぼしょぼする目を休ませながら、今日は、考えた。