視点・論点

視点論点

いつも思うのだが、「視点・論点」にしても「放送大学」にしても、題名は興味深いのに、どうして、論者は、あんなに面白くないもののいい方をするのだろう。きょうの「視点・論点」はパレスチナ問題で、興味を持って、見てみたが、我慢しなければ、最後まで聞けなかった。

論者は四角四面の顔で、一点を見つめたまま、感情もなく、表情もなく、言葉にアクセントも感情の動きもないままに、ただただ時間内に言うべき内容を述べるのみ。大学の先生らしいけれど、こんなので、自説の展開や自己主張ができるのかね。

昔教えていた高校の生物だか、科学だかの先生に、自分が学生時代に取ったノートらしきものを、30年間読みあげているだけの先生がいて、生徒の質問にも応じず、ほんのすこしでも数字が入ると、自分は数学の先生ではないからと、説明も逃げていた。私が担任を持った生徒が、何とかしてくれと、私のところに来たので、国語教師だった私がその時教えられることは、とりあえず教えて、結果的に彼をガードする始末。

なんだか、あれを思い出しちゃった。

「偏らない」ということは、淡々と事実だけを述べることかもしれないけれど、ああいう「顔」で、淡々と述べられては、伝わるものも伝わらない。番組に顔を出して物を言う意味もない。

このところ、講座などに出席して、ここにも紹介している雨宮神父の言葉を借りると、「情報というものは、各人の個性を通して伝わるもので、まったくどこから見ても客観的史実など、誰も伝えていないのだ。」

伝える人間が、ある恐怖、ある驚愕、ある喜び、ある感動を感じるような「出来事」を伝える時、その人間が必要だと感じなかった出来事など、伝える必要がないから伝えない。

モーゼが海を分けて地表を乾かして渡った時、たとえ、モーゼがくしゃみをしたとしても、そこに伝えるほどの意味がないから「モーゼ、くしゃみをしたまえり」などとは伝えない。

エス様は明らかに人間として、3度の食事も食べただろうし、トイレにも行っただろうし、泣いたり悲しんだり、こんにゃろめと怒ったりしただろう。人並みに女性を愛しもしただろう。しかしそんなことを語ることに意味がなく、伝えるべきもっと感動的なことが行われたから、聖書にはそれしか書いてないのだ。だからと言って、伝えられていることが、客観的史実ではないとも、実証できない。

いや、それらは客観的史実ではないかもしれない。しかし、ある事実によって、人が感動し、自分の人生を見つめ直し、救いを感じ、喜びを感じ、生まれ変わったとしたら、客観性よりも主観性の方が、聖書においては意味がある、ということになる。

ということは、伝わる出来事とは、伝えるべきだと思ったある人間の「衝撃的体験」を通して伝わるのであって、それを伝える時人間は、恐怖や感動や、悲しみや喜びを、顔にも手にも体中で表しながら伝えるから、たとえ大げさであろうとも、そこに人は惹きつけられる。人が伝えることができる「真理」とはそういうもので、伝わらないのは、話者自身に、感動がないからだ。

無表情で、手も顔も動かさず、言葉だけ唱えていても、たとえそれが事実だとしても、感動を与えないものは伝わらない。そして、人に感動を与えないものは、「真理」でもないし、「史実としての価値」もない。

と、今日、私は思った。